大野ヶ原の開拓と人々の暮らし

標高1,000mを超え、北海道の道南地方と同じような平均気温の大野ヶ原。原野を切り開いた開拓の歴史と、現在の人々の暮らしについて紹介します。


積雪が多い時には、2〜3mの吹きだまりができることも 

いくつもの伝説に彩られ、軍用にも使用されていた大地

弘法大師や平家の落人伝説が残る大野ヶ原。江戸時代には大洲藩との番所が置かれ数名の役人が居住し、隣の土佐藩との行き来を監視していました。明治に入ると日露戦争をはじめとした諸外国との戦争のため、広大な陸軍の演習場がつくられ、久万高原町のふもとから、武器を運ぶための軍用道路も整備されました。昭和に入ると、その演習場跡に軍馬を育成するための放牧場ができ、太平洋戦争が拡大すると40~50人の兵隊が軍馬を育成するために居住ました。


酪農以外に高原野菜や花きの栽培も盛ん

原野を切り拓き、水道や電気を通した開拓当初

大野ヶ原で開拓が始まったのは戦後になってからです。当時、食料不足対策や外地からの引き揚げ者のために、国が積極的な開拓政策を進めていました。1950(昭和25)年にまず30世帯の農家が入植しました。かつて、軍用としては使用されていたものの、一般の人々が暮らすのは初めてともいえる土地。そこには、クマザサやカヤなどが茂り見渡すかぎりの原野が広がっていたそうです。当時は大型の機械がない時代、人々は鍬で大地を少しずつ開墾し、家や電気、水道を引くことから始めました。


昭和40年代の様子

様々な作物を試し、酪農の一大生産地へ

やがて農地が造成されると、冷害や台風の被害を比較的受けづらいジャガイモや大根、キャベツの栽培が始まりました。特に大根は愛媛県内だけでなく、高知県でも人気を呼びました。ただ、連作を続けてしまうと畑がやせるなどして、安定性に欠けます。そこで、冷涼な高地でも育てることができる牧草を餌とする酪農へと移行しました。そして、公営牧場の建設や作業の機械化もあって酪農は発展しました。最近は肉牛の経営も盛んになりつつあります。


後継者も数多く存在する、農村先進地として注目

標高1,125~1,200mにある大野ヶ原の集落では、29世帯83人の人々が生活をしています(ちなみに乳牛の数は人口の2倍弱の155頭!)。開拓2世や3世が活躍し、小学校の生徒も6名おり、多くの農家で後継者が存在します。牧草を餌とした低コストで持続可能な酪農を中心に、脈々と受けつがれてきた大野ヶ原大根のブランド化、肉牛の経営、花き栽培や四国カルスト高原にんにくの栽培など新しい取り組みも行われ、地域の強い結束力で全国から注目される地域となっています(2022年12月現在)。


大野ヶ原年表

●中世以前 一夜ヶ森など弘法大師にまつわる言い伝えや源氏ヶ駄場における平家の落人伝説が残る
●戦国時代 関ヶ原合戦後、松山領となる
●1635(寛永12)年 大洲藩領となる
●1664(寛永4)年 浮穴郡小松村となる 番所があり、数名居住
●1908(明治41)年 陸軍発砲演習場となる
●1919(大正8)年 営林署の植林地となる
●1939(昭和14)年 畜産局軍馬放牧場となる 40~50人が居住
●1945(昭和20)年 終戦
●1946(昭和21)年 開拓増産隊15名入山
●1950(昭和25)年 第一次入植農家30世帯が入植
●1952(昭和27)年 大野ヶ原分校(小・中学校)が創立
●1955(昭和30)年 これまでで最高の63世帯が定住
●1959(昭和34)年 地域で乳牛40頭を購入し、酪農への移行を図る
●1974(昭和49)年 国営牧場「四国カルスト牧場」事業開始

※大野ヶ原に生きる(黒河高茂著)より